日本パウル・クレー

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パウル・クレー ギャラリー

パウル・クレーアイテムのご購入について

  • パルナッソスへ

    パルナッソスへ

    Ad Parnassum, 1932, 271
    1932年 キャンバスに油彩
    100 X 126 cm ベルン美術館蔵

クレーの代表作と目される大作。パルナッソスとはギリシャ神話でアポロン、ミューズの居住地とされている山で、創造の女神ミューズへの捧げものとして描かれた意を含んでいる。(パリの芸術家コロニー「モンパルナス」もここからきてる)実り豊かなバウハウス時代の後、クレーはデュッセルドルフ美術学校の教授となり、点描画法に取り組んでいるが、この作品がその頂点を示している。音楽の構造ポリフォニーを絵画に写し、実際作品は何層もの色面を重ねて描かれ、重奏の視覚化が試みられた。翌年1933年にクレーは、ナチスの弾圧によってスイスへ亡命、クレーを支援する友人らが展覧会を開き、美術館友の会がこの作品を購入してベルン美術館へ寄贈した。

  • パルナッソスへ

    アルファベット WE

    Alphabet WE, 1938, 226
    1938年 紙に糊絵の具
    27.1 X 21 cm パウル・クレー・センター蔵

晩年のクレーが到達した地点は、音楽、ことば(詩)、絵画の有機的な結びつきだったが、晩年様式と呼ばれる太い線描のコンポジションは、新しい作風を次々に生みだしていった。ここでは言語の最小要素であるアルファベットのカリグラフィーを描いて、意味深長なことば遊びに興じている。研究者によって一連の暗号めいたことばが解読されることもある。画材に使われた「糊絵の具」とは、クレー自身が色々な材料を混ぜて作った画材の総称で、必ずしも糊と絵の具を合わせたものではない。

  • 雨模様の小さな風景

    雨模様の小さな風景

    Kleine Landschaft in Regenstimmung, 1913, 196
    1913年 紙に水彩
    19.8 X 12 cm パウル・クレー・センター蔵

ミュンヘンで、妻リリーのピアノ教師としての収入で生計を立てていたクレーはまだ無名だった。自分は「線の画家」であるという自覚から、初期は線描作品に執着したクレーだが、ミュンヘンの芸術家集団「青騎士」(カンディンスキーらが主宰)との交流を持つようになったこの時期、徐々に色彩への歩みが見られるようになる。この作品はおそらくミュンヘンではなく、スイスに帰った際に描かれたもので、色彩画とはいえ、単色に近い色遣いで極端な明暗を避けている。クレーが色彩に目覚めるのは翌1914年のチュニジア旅行を契機とする説は、今日では批判的な見解が多くを占めている。この作品が描かれた時期以来、クレーは半ば恐れながら、豊かな色彩をパレットに抽出し「色彩の画家」への道を歩みはじめている。

  • 別れを告げて

    別れを告げて

    Abschied nehmend, 1938
    1938年 紙に糊絵の具
    50.7 X 9.3 cm パウル・クレー・センター蔵

クレーの素描作品のなかでも異彩を放っているこの一枚は、まるで日本の禅画を思い出させる。もともとは男女並んで描かれていたドローイングの、男の部分だけを切り取って1点の作品にしたという経緯を、クレー研究者奥田修が指摘している。文字どおり別れを告げて作品に仕立てられた絵は、力強い一筆書き(実際は途切れているが)風で、クレーが東洋の墨絵を意識しためずらしい作品。

  • 征服者

    征服者

    Eroberer, 1930, 129
    1930年 綿布に水彩・ペン
    40.5 X 34.2 cm パウル・クレー・センター蔵

クレーがバウハウスで教えていたのは1920〜30年までの約10年間で、バウハウスは設立当初の表現主義的な傾向から構成主義へと気風が移ってゆく。それに伴ってクレーの作品にも影響が出る。「征服者」(あるいは侵略者)は、定規で引いた線と幾何学図形で構成された抽象的絵画だが、クレーのユーモア精神がふつふつと情念を醸し出していて観るものを微笑ませる。だが秘められたメッセージは、ドイツ社会を浸食しつつあった国家社会主義(ナチス)への揶揄であり、画面の炎のような赤が血と熱気を物語っている。

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